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医史跡、医資料館探訪記25 大坂仮病院跡、大阪医学校跡を訪ねて

適塾を後にし、淀屋橋駅から大阪メトロ御堂筋線に乗り、なんば駅で千日前線に乗り換え谷町九丁目駅で降りる。駅を出て東へ歩き、上町筋に出て北へ600mほど進むと右手に大福寺(上本町四丁目バス停東側)という寺がある。この寺が大阪仮病院跡である。 1868年(明治元年)の布告によると、大阪に本格的な医学専門教育学校と病院建設を計画していた。学校については舎密(せいみ)局が発足したが、病院は財政難で1869年(明治2年)3月ようやく大福寺で仮病院として開業した。院長は緒方惟準(おがた これよし:洪庵次男)、主席教授はオランダ人医師アントニウス・F・ボードインで、医学教育にもあたった。

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大福寺全景

大福寺境内に記念碑がある。ボードインは大福寺から700mほど離れた法性寺(ほっしょうじ)に逗留していた。法性寺は坂本竜馬が身を隠したことでも知られてる。

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1869年(明治2)年7月鈴木町代官屋敷、今の法円坂町に大阪府病院が竣工し、仮病院廃止。11月、大阪医学校開設、大阪府病院は大阪医学校病院となる。大阪医学校は現在の国立病院大阪医療センターにあった。

大福寺をあとにし、上町筋を北に850mほど進むと、交差点を渡った左手に兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑がある。1869年(明治2年)9月4日夕刻、京都三条木屋町の旅館で刺客に襲われた大村益次郎は重傷を負った。ここ大阪府病院でボードインや緒方惟準らの治療を受けるも敗血症で亡くなっている。大村益次郎の看護にはシーボルトの娘 楠本イネも関わっており最期を看取ったといわれている。

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兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑をあとにし、上町筋を北に進むと左手は大阪医療センターの広大な敷地が続く、その敷地の北東の角に旧大阪医学校ならびに旧大阪師範学校の石碑がある。石碑は損傷著しい。旧大阪医学校は大阪大学医学部に旧大阪師範学校は大阪大学になっていく。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊