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医史跡、医資料館探訪記37 千人塚を訪ねて

東京帝国大学医学部で解剖されて人々の供養塔が東京都立谷中霊園にあると聞いていたが、その所在の詳細を知らなかったので霊園内で大きな墓石のあるところ一つずつ当たってみる。千人冢と書かれた供養塔が3基並んでいたので、見つけるのにさほどかからなかったのは幸いであった。あとで知ったが、厳密には谷中霊園に近接した天王寺墓地内千人塚はあった。谷中霊園、天王寺墓地、寛永寺墓地は入り組んでおり、これらを合わせて谷中墓地と呼ぶことを知った。

医史跡、医資料館探訪記37 千人塚

①と⑱のあいだに千人塚はある。

 

医学所時代、大学東校時代通じて特志による解剖の件数は数えるほどしかなく、刑死体あるいは獄中死した遺体を解剖体として提供してもらえないか東京府に要請していたが応じてもらえなかった。明治政府が明治3年夏に獄則改定が公布され、それまで処刑された罪人は刑場に捨てられ野犬らに食いあさるにまかせていたが、遺体を親族が引き取りたいという申し出があった場合は下附することを許すというものであった。それに附随して「下附スベキ親戚ナキモノハ、大学東校医員ノ請ニ因テ解剖スルコトヲ許ス」という条項が付け加えられた。その後、紆余曲折があったものの刑死体のほとんどが大学東校に運び込まれ解剖されることになった。解剖された刑死体は埋葬されることなっていたが、身寄りがないかれらに菩提寺はないことから大学東校と東京府で協議し、谷中の天王寺に依頼してみることになり、寺はそのことを快諾した。

医史跡、医資料館探訪記37 千人塚

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「明治三年十月至明治十三年九月在東京大学医学部?剖觀屍體計一千有裨益于医学不為鮮仝?十四年六月建石于其埋廃之處以表之 東京大学医学部総理正五位勲四等 池田謙斎題 東京大学医学部解剖学教授田口和美記」と書いてある。

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「明治十三年九月至二十一年九月、剖觀屍體計一千有裨益」とある。

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「明治二十一年九月至三十七年八月 剖觀屍體計一千有裨益」とある。

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千人冢の右手前に小ぶりな塔がある「明治三十七年八月から大正十四年七月に至る間の医学解剖屍体ハ百六十二体は医学に稗益すること多し、、、」とある。

千人冢の左手には、東京大学医学部納骨堂がある。

多くの解剖体により医学教育が向上したことは間違いない。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊