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医史跡、医資料館探訪記48 土生玄碩の墓を訪ねて

土生玄碩(はぶ げんせき)は、江戸時代後期の高名な眼科医で西洋眼科の始祖と呼ばれている。和田東郭に学び、のち西洋眼科を修め、安芸広島藩医から幕府奥医師となる。法眼。散瞳薬の処方を伝授された見返りにシーボルトに葵紋服をおくったため、シーボルト事件に連座、処罰された。

東京メトロ日比谷線築地駅から徒歩1分、築地本願寺(東京都中央区築地3丁目15-1)に土生玄碩は埋葬されている。1923年(大正12年)の関東大震災で被災し築地本願寺分院和田堀廟所(東京都杉並区永福1-8-1)に土生家の墓は移設されているが、築地本願寺には土生玄碩の碑と玄碩の墓石が残されており、東京都指定旧跡土生玄碩墓となっている。

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正門を右手の憩いの庭の中央付近に玄碩の墓と碑はある。墓石は被災したためか中ほどで折れており補修されている。

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墓標には、桑翁土生君之墓と刻まれている。

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築地本願寺を後にし、聖路加病院方面に5分ほど歩くとあかつき公園がある。公園には、シーボルト事件のその人、シーボルトの像がある。築地は、シーボルトの娘いねが産院を開業した場所ということで、シーボルトの胸像が建立されている(いねの像の方がよかったのではと思うが)。

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いねについては吉村昭の小説「ふぉん・しいぼるとの娘」に詳述されている。長崎のポンぺより解剖学、病理学、産科を学び、大村益次郎が襲われた際には最期を看取っている。1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。

あかつき公園を後にし、築地駅から日比谷線に乗り、銀座で銀座線に乗り換えて渋谷に出て、京王井の頭線に乗り明大前駅で下車した。築地本願寺分院和田堀廟所へは駅から徒歩7~8分ほどであろうか?廟所の最初の建物を抜けて墓所に入り、最初の分岐を右斜めに進むとすぐのところに土生家の墓はあった。広い墓所の中で迷わなかったのは奇跡的であった。眼球を模したのか丸い墓石が特徴的である。大超院殿釋廊然桑翁大居士 嘉永元年8月17日とあるのが玄碩で相違ない。

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広島県安芸高田市の土生玄碩の生家は現存しているので、そのうち訪れてみたいと思っている。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊