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医史跡、医資料館探訪記36 旧医学校跡を訪ねて

2020年11月美幾女の墓参りに行った後、解剖が行われた医学校跡を訪ねた。念速寺より20分くらい歩きJR水道橋駅へ、そこから総武線各駅停車で秋葉原駅へ向かう。秋葉原駅は昭和通り口(東口)を出て昭和通りを渡り左方向(北方面)へ100mほど進むと神田和泉町の看板がある。

医史跡、医資料館探訪記36 旧医学校跡を訪ねて

医史跡、医資料館探訪記36 旧医学校跡を訪ねて

この看板があるあたりが、津藩藤堂家和泉守上屋敷跡で医学所(大学東校)跡(現YKK AP本社ビル)であるが、その痕跡を示すものは何も残されていない。敷地はかなり広かったことがわかる(上図)。ここで美幾女が解剖されたのである。当時の解剖はゴム手袋などなく、当然のごとく素手である。腐敗を防ぐために塩漬けにしていたようであるが、梅毒に感染した遺体を素手で解剖することは、少なからず感染リスクがあったと想像される。吉村昭の小説「梅の刺青」では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美としている。田口は、後の東京大学医学部解剖学の初代教授である。

医史跡、医資料館探訪記36 旧医学校跡を訪ねて

旧医学校跡。右手の方にかなりの敷地が続く。お玉ヶ池種痘所が東京大学医学部の前身であるが、焼失したためその後大槻俊斎、伊東玄朴宅を臨時種痘所とした。伊東玄朴居宅跡と臨時種痘所跡は昭和通りを北に進み、蔵前橋通りとの交差点あたりにあったといわれている(写真下)。種痘所は、その後官立種痘所、西洋医学所と名称が変わっていく。

古地図(下図)には藤堂和泉守邸の近くに医学館との記載があるが、これは1765年(明和2年)に幕府の奥医師多紀元孝が漢方医の教育のために設立したもので、蘭方医の伊東玄朴らが設立したものとは異なる。司馬遼太郎が「胡蝶の夢」執筆の際、取材に訪れたときに誤って案内された医学館跡で現在の台東区浅草橋4丁目16番にあたる。以前はここに医学館跡を示す案内板があったが、現在はない。

医史跡、医資料館探訪記36 旧医学校跡を訪ねて

この案内板の写真と古地図は、【かきしるす】神田和泉町|近代医学と近代タイポグラフィが本格スタートした記念の地|下谷和泉橋通り・神田佐久間町などと書きしるされた大名屋敷跡周辺 | NOTES ON TYPOGRAPHY (robundo.com)からの転載。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊