荻野吟子は日本で初めて医術開業試験(医師国家試験)に合格した女性であり、渋沢栄一らとともに埼玉県三大偉人といわれています。渡辺淳一の小説「花埋み」に吟子の生涯は詳述されています。熊谷市立荻野吟子記念館は生家の長屋門を模して建てられました。記念館に隣接して荻野吟子生誕之地史跡公園があります。
1851年(嘉永4年) – 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生まれます。1868年(慶応4年)親の言うままに結婚し、1870年(明治3年)夫に淋病をうつされ離婚します(19歳)。抗生物質のない時代淋病は完治することなく、漢方医もなすすべもありません。大学病院(大学東校 現 東京大学医学部)での診察の際、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により女医を志します。この当時は女性が医学を学ぶ以前に、女学校以上の教育を受けること自体まれでよく思われていない中、勘当同然に家を出て上京、国学者・井上頼囶(いのうえよりくに)の神習舎に入門(22歳)。吟子の才覚が評判となり、内藤満寿子(ないとうますこ)の甲府女学塾に助教として招かれ、甲府に赴きます(23歳)。女子高等師範学校(現 お茶の水女子大学)に入学(24歳)、同校を首席で卒業します(28歳)。
私立医学校の好寿院に入学(28歳)、男子しかいない中で嫌がらせを受けながらも同校を優秀な成績で卒業します(31歳)。東京府に医術開業試験の願書を提出したが前例がないという事で却下。翌年、東京都・埼玉県に提出したが却下。内務省に請願書を提出するが却下。前例がない理由で開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼囶に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医があったことを突きとめ、このことを強調し請願します。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と食いさがったそうです。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、1884年(明治17年)にようやく受験が認められ、 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験し、吟子1人のみ合格しました。翌年後期試験にも合格し湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業します(34歳)。下の写真は国家試験合格を記念して撮影したものです。
開業を通じ医学だけでは人々を救えないことを吟子は実感します。1886年(明治19年)本郷教会にて洗礼を受け、教会内の東京婦人矯風会に参加(35歳)、後に風俗部長となります。
その後13歳年下の同志社の学生志方之善(しかたゆきよし)と再婚し理想郷をつくることを夢見て北海道(現今金町(いまかねちょう))に入植します。機会があれば北海道今金町、せたな町など吟子縁の地も訪れてみたいものです。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊