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医史跡、医資料館探訪記46 看護婦教育所創設之地を訪ねて

都営三田線御成門駅A5出口から出て港区立御成門中学方面に進み、中学校の敷地に沿って右折し100mほど進んだ慈恵看護専門学校 玄関前に看護婦教育所創設之地の記念碑がある。

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碑文には、「明治十七年十月東京慈恵会医科大学学祖高木兼寛米人リード女史ヲ聘シ有志共立東京病院構内ニ看護婦育成ノ業ヲ興ス。是本邦斯界ノ靉靆タル暁雲ニ赫耀ノ配セルヲ観ルニ庶シ。創始ノ百歳ヲ記念シ此碑ヲ建ツ」とある。

看護婦教育所(現 慈恵看護専門学校)が、日本初の看護師教育機関として1885年(明治18年)設立されたのを始まりである。創始者の高木兼寛は、英国セントトーマス病院医学校に留学しており、帰国後の1881年(明治14年)に成医会講習所(現 東京慈恵会医科大学)ならびに有志共立東京病院を創設した。高木の心にあったのは、留学先のセントトーマス病院のナイチンゲール看護婦学校での先進的な教育であった。それを範として、指導者に米国看護師ミスM・E・リードを招き本格的な看護師教育を始めた。

医史跡、医資料館探訪記46 看護婦教育所創設之地を訪ねて

中央がミス・リード、在校生13名と一緒に撮ったもの

東京帝国大学医学部を中心としたドイツ式医療が学理中心であったのに対して、高木兼寛を中心としたイギリス式医療は患者中心のものであった。高木は医療の中での看護の重要性を最も早く認識しており、「病気を見るな、病人をみろ」との言葉を残している。

有志共立東京病院看護婦教育所の設立にあたり、資金的な面で活躍したのが鹿鳴館の華と呼ばれた大山捨松でした。捨松は日本初のチャリティバザーを主催し、集めた資金は全額が有志共立東京病院に寄付され有志共立東京病院看護婦教育所の設立に使われた。捨松はヴァッサー大学卒業後、ニューヘイブン病院で2ヶ月実地看護に従事し、看護婦の免許を取得しており、看護教育の必要性を理解していたと思われる。

医史跡、医資料館探訪記46 看護婦教育所創設之地を訪ねて

看護婦教育所の建物。1886年(明治19年)1月20日撮影

 

参考文献

松田誠:高木兼寛の医学 : 東京慈恵会医科大学の源流,東京慈恵会医科大学,2007.12

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊