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医史跡、医資料館探訪記64 ベルツ記念館(群馬県草津町)を訪ねて

日本の近代医学はまずはオランダ商館医のシーボルトポンぺからはじまり、幕末期から明治維新にかけてはウィリスがイギリス医学を広め活躍した。ウィリスは、 大学東校 (現・東京大学医学部の前身)の創始者のひとりであるが、明治政府がドイツ医学を導入することを決めたためを退職した。大学東校には当初、ドイツ陸軍医ミュルレルホフマンが赴任するが、その後任がベルツスクリバであった。両人とも軍医ではない初の医師であった。ベルツはその後29年間にわたり東京大学で教鞭をとる傍ら皇室の侍医を務めた。我が国の医学の発展に大きく貢献したことから「日本近代医学の父」と呼ばれている。草津温泉を訪れた際にその良質な泉質と上質な空気に驚き、そのことを世界に紹介したことを称え、ベルツ記念館ができたのである。

1階がミュージアムショップ、2階が展示室

ベルツ博士は、草津温泉のハンセン病に対しての効果について調べ、潰瘍に対しては効果があることを突き止めた。また、博士はらい菌の抗体を発見し、血清の造ることを試みるがハンセン病に対する伝統的な恐れから血液が容易に集まらず苦労した話が展示されていた。ハンセン病の療養所が現在も草津にはあるが、ハンセン病と草津温泉の結びつきについて考えさせられる展示であった。

ベルツ博士は日本人女性を妻として迎えている。妻の旧姓は戸田花子(1864-1937)、花と呼ばれていた。ベルツ博士は1902年(明治35年)東京帝国大学退官後、宮内省侍医を務めたが、1905年(明治38年)に花夫人とともにドイツに帰国。1908年(明治41年)伊藤博文の要請で再来日するが、1913年(大正2年)、ドイツ帝国のシュトゥットガルトで心臓病のため64歳で死去。花夫人はベルツ博士の死後、10年ほど滞独したがドイツ国籍は取得できず日本に帰国した。

ベルツの日記には、性急に西洋文明の成果だけを取り入れようとする日本人の姿勢に対して批判的な意見が述べられている部分もあるが、博士の日本愛を感じる部分でもある。物事を知るうえで文化的、歴史的背景を知らずして、知ろうともせず表面的な結果という果実のみを得ようとする姿勢は一種の卑しさでもあり、批判されてしかるべきだと思う。また、博士が日本固有の伝統文化の再評価を行うべきことを主張している点も、日本文化の素晴らしさに気づかれていたからであろう。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊