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医史跡、医資料館探訪記4    松本順(良順)ゆかりの地、大磯を訪ねて

松本良順は、天保3年(1832年)に順天堂始祖の佐藤泰然の次男として生まれ、のちに幕府の奥医師になる松本良甫の養子になります。良順は長崎でオランダ軍医ポンペに師事しオランダ医学を学び、良順自身も奥医師となり将軍徳川家茂の治療に当たります。戊辰戦争では幕府軍に医師として従軍し、その後官軍に捕縛されます。赦免されたのち、明治4年(1871年)に従五位に叙せられ、順に改名します。明治6年(1873年)に初代陸軍軍医総監になります。

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海水浴の効用を蘭書で知った松本は、大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、海水浴場の条件に合致することを確認しました。漁の邪魔になるという漁師を説得し、 明治18年(1885年)に大磯海水浴場は誕生しました。翌19年(1886年)東海道線の横浜-国府津間の延長が決まってから、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力説し、大磯に停車場を設置するよう働きかけ、また旅館と病院を兼ね備えて「祷龍館(とうりゅうかん)」を建設し、建設資金の不足は会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの東京・横浜の名士が名を連ねました。祷龍館繁栄之図が大磯町郷土資料館に展示されています。当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え海辺の清涼な空気を吸うことでした。 泳ぐというのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまり、海水につかっているだけで、いわば潮湯治のようでした。

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祷龍館繁栄之図

 

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大磯照ケ崎海水浴場には、松本順の功績をたたえ謝恩碑と海水浴場発祥の地の碑があります。実際には前年の明治17年(1884年)に長与千斎より鎌倉由比ガ浜海水浴場を開場しているの厳密には日本初ではありません。日本初の海水浴場は定かではないが、エルドリッジヘボンが横浜の富岡海岸の水質検査をしており潮湯治が明治11年(1878年)頃には行われていたといいます。

その後、大磯に居を構えた松本は、明治40年(1907年)に心臓病で倒れ75歳の生涯に幕を閉じます。大磯の鴫立庵(しぎたつあん)に埋葬されますが、その後大磯駅近くの妙大寺に墓所が移されます。

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妙大寺正門と墓所

 

妙大寺に寄ったあと、鴫立庵に立ち寄り湘南発祥の地の石碑を見た後、旧吉田茂邸と大磯郷土資料館に行きました。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊